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Shine Blog

桐生貴政という読み物。

最後のカーネーション

エッセイ

カーネーション

 

私の母は5年前の7月に子宮頸ガンで他界しました。

享年65歳。生前は長くスナックを営んでいて、周りからは本名ではなくお店の名前であるスナック幸子の『さっちゃん』の愛称で親しまれていました。

 

今日はそんな母と、長男である私の話を少しだけ聞いてください。

 

 

母と一緒にいた12年間

 

両親が離婚したのは、私が小学5年生の時です。

春休みまであと数日に迫ったある日、学校から帰宅するとリビングに母が正座しています。

 

妙な違和感を覚えながらランドセルを置くと

『大事な話があるから座りなさい。』と言われ、嫌な予感がして緊張したことを今でも覚えています。

 

5月生まれの私が母と一緒にいたのは、12年弱の期間でした。

 

 

兄弟の話を少しだけ。

4人兄弟の3番目の私が長男で、8つ上の長女と7つ上の次女、3つ下の妹の4人兄弟です。姉弟と書いた方が正しいでしょうか。

 

群馬県で迎えるはずだった小学校6年生は、妹と二人で茨城県で迎えることになります。

 

姉二人が母と一緒に群馬県に残り、父と私と妹で茨城県に引っ越しました。

なぜ茨城県かというと、石工職人で東京にほとんど単身赴任のような状態だった父が、姉夫婦に私と妹を預けるためです。

 

母に甘やかされて育った当時の私には、とても辛い6年生だった気がします。

 

 

母との思い出

 

両親が離婚する前の話です。

 

母は学校をズル休みさせては、私と妹をデパートに連れ出すのが習慣でした。

 

小学校1年生の時に、担任の先生に『進級できなくなる』と言われたくらいでしたから、週一以上のペースで母のお店のあった商店街に繰り出すのでした。

 

私が幼少期を過ごしたのは群馬県の桐生市という所で、渡良瀬川が流れるのどかな街です。「桐生は日本の機どころ」と言っても、群馬県出身の方にしか通じないと思いますが、かつては製糸業で栄えた場所です。

 

そんな桐生市の本町にある長崎屋というデパートで食べる「登利平の鳥めし弁当」や商店街で食べる「ソースカツ丼」や「釜めし」が大好きで、連れ出されるのを楽しみにしていたのを覚えています。

 

テストで100点を取ると頭を撫でてくれた母

やたらといいスニーカーを買ってくれる母

ド派手な下着姿で化粧をする母

いつも大きな声で笑っていた母

高熱を出して病院に運ばれた時に泣いて心配してくれた母

 

そんな母との再会は、それから10年後のことでした。

 

 

母との再会

 

二十歳を過ぎた頃、母と再会しました。

 

中学の終わり頃からグレ始め、高校も半年で中退した私は、当時パチンコ店でアルバイトをしていました。

 

連休を利用して、群馬県で車屋をしている叔父さんに車の修理をお願いしに行き、待ち時間に代車で姉を尋ねた時のことです。

 

その時のことは正直なところ、あまり覚えていません。

母が大好きだった私は、突然の別れのショックから10年経っても立ち直れていませんでした。

 

母を直視できず、お母さんとも呼べず、それでも母は昔と変わらず私のことを『たーくん』と呼んでいたことだけ覚えています。

 

 

ガン宣告

 

母がガン宣告を受けたのは64歳の時。

他界する約一年前です。

 

当時私は30歳。契約社員として働いていたので、あまり休みの自由もなく、何度かしか会いにいけませんでした。いや、行きませんでした。

 

当初会いに行った時は意外と元気そうでしたが、発見した時にはこぶし大の腫瘍があり、手遅れだった母は短期間でどんどん衰弱していきます。

 

『もう長くないから、会いに来てあげて』

長女からそう言われ、最後に会いにいったのが亡くなる3ヶ月前の4月でした。

 

その頃の母はガリガリに痩せほつれ、歳も到底65歳には見えず90歳前後の老人のようでした。

 

抗癌剤の副作用で髪もなくなり、食事もほとんど苦味しか感じないようで吐き出してしまいます。

 

『タカがやれば食べるかもしれないから』

こっそりと長女に促され、私が食べさせると母は吐き出さず飲み込むのでした。

 

『お母さん大丈夫?苦くない?』

そんな姿を見て、私は必死に涙を堪えながら、母をそう呼んでいました。

 

 

20年ぶりの『お母さん』

 

その日、私は何度も母親をそう呼びました。

 

『お母さん痛くない?』

『お母さんほら、気をつけて』

『お母さん何か飲む?』

 

『お母さん』と呼ぶたびに、胸のほつれが解けていきます。

相変わらず『たーくん』と私を呼ぶ母を見て、離れていた間も想っていてくれたんだと気付いたんです。

 

病院の診察に行くのに、細くなった母の体を車まで抱きかかえながら歩いたのが、最後の母の温もりでした。

 

 

最後のカーネーション

 

『5月の母の日にカーネーションを送るから』

長女に電話でそう伝え、私は母にカーネーションを贈ることにしました。

 

オレンジ色の蕾をつけたカーネーションの鉢植えを、母の日に合わせて咲くように送ってくれるという花屋さんにお願いしました。

 

花が届くと『すごく喜んでるよ』という姉の言葉に、送ってよかったなと思いました。

その後も出来る限り、自分で水やりをしていたようです。

 

 

そして7月。

深夜0時過ぎに母が亡くなったと姉から連絡が入り

 

『お母さん死んじゃったよ』

そう泣きじゃくる姉を慰めながら、すぐに家を出ました。

 

深夜3時を回った頃、到着すると母は畳部屋の布団に横たわっていました。

『すごく苦しんでたから』姉二人の言葉どおり、母の顔はまだ苦しいような表情です。

 

私は枕元に座り込み、ひんやりとした母のおでこに手を当てて

 

『お母さん…』

そう呼んだ次の瞬間から涙が止めどなく流れました。姉もいっそう泣いています。

 

 

どのくらいの間、3人でそうしていたでしょうか。

『お母さんの顔が変わってる!』次女がそう叫びます。

 

驚いて皆で顔を覗き込むと、さっきまで苦しそうだった母の顔が微笑んだような表情に変わっていました。

 

『もう苦しくないんだね、よかったねお母さん…』

長女の言葉に、見守ってくれていた姉二人の大変さを感じながら、朝方到着した妹と姉弟揃って見送ることができました。

 

玄関にある少し萎れたカーネーションを横目に。

 

 

あれから5年、もうすぐ今年も母の日が訪れます。

 

結婚もせず、相変わらず『たーくん』な私から、母が喜んでくれたオレンジ色のカーネーションを贈る大切な日です。

 

今年もメッセージカードに

『お母さんありがとう』の一言を添えて。

 

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